みんな集まれ半蔵門

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「Switch2買い与えるムーブ」やめてほしい

 

Nintendo Switch 2の予約・抽選が始まっている。

まるで春先の花粉のように、否応なく僕たちの日常に忍び込んできている。それは避けようのない自然現象にも似て、気づけば鼻がムズムズするように、僕の心も少しばかりざわつき始めているのだ。

 

そして、案の定というべきか、我が家のリビングでもその微かな予兆が現実のものとなりつつある。小学校4年生と1年生になった二人の娘たちが、Switch 2、Switch 2と唱え始めたのである。それはまだ、切羽詰まった「どうしても必要なんです、父さん!」というような、まるで世界の終わりに食べる最後の一切れのケーキを巡る争いのような真剣さで僕に迫ってくるわけではなく、実にふわっとした、掴みどころのない欲望を口にするのである。

 

何か特定のソフトをやりたいわけでもなく、今楽しんでいるゲームの続編がSwitch 2でしか出ないという情報があるわけでもない。ただひたすらに、純粋に、そこにある「新しさ」に吸い寄せられているかのような口ぶりだ。まるで、ショーウィンドウに並んだトランペットを見ているような、理由なき憧憬。

 

僕は尋ねてみた。

「なぜSwitch 2が欲しいんだい?」
長女が答える。
「だってさ、新しいんだもん。きっと面白いに決まってるじゃん」
次女が続く。
「そうそう! あたらしいやつ!」
二人の目は、まるで明け方の地平線から昇る太陽を見ているかのようにキラキラしている。しかし、その輝きの源泉は、論理でも必然性でもなく、ただ漠然とした「新しさへの期待」なのだ。

 

ええい、待て。新しいから面白い? それは論理の飛躍というものではないか。まるで「新しい靴下を履けば、自動的に足が速くなる」と言っているようなものだ。あるいは、「新しいスプーンを使えば、カレーがいつもより美味しくなる」と言っているようなものだ。いや、もしかしたら新しいスプーンで食べるカレーは少し美味しくなるかもしれない。しかし、それはスプーンの性能によるものではなく、新しいものを使っているという高揚感によるプラシーボ効果の可能性が高い。

Switch 2の場合、それがプラシーボ効果なのか、あるいは確かな進化なのか、現時点では僕には判別がつかないのだ。

だって、冷静に考えてみてほしい。我が家には現行のNintendo Switchがある。毎日娘たちは『マリオカート』でバナナの皮を投げ、『あつまれ どうぶつの森』で素潜りで密猟を繰り返し時間を溶かしている。時には僕も引っ張り出されて『ゼルダの伝説』の謎解きを手伝わされたりもする。十分に楽しめているのだ。「全く」飽きているわけではない。持て余しているわけでもない。

 

しかも、だ。

巷で流れてくるSwitch 2の情報を見る限り、それはまるで「iPhone 14から15に買い替える」くらいの、微差を積み重ねた進化に見えるのである。もちろん、技術の進歩は素晴らしい。画面がより綺麗になったり、処理速度が向上したりするのは結構なことだ。それがゲーム体験を豊かにするのも理解できる。

しかし、それが今、この瞬間に、我が家の家計から49,980円、つまり約5万円近くを徴収するに値するかと問われれば、僕の財布は固く口を閉ざすのである。試練の祠である。

 

そして問題はここからだ。この「ふわっと欲しい」という、まるで綿菓子のように軽い欲望は、あるトリガーによって一気に重量を増す性質を持っている。そしてそのトリガーは、他ならぬ「周囲の友達」なのである。

そう、クラスの誰かが、あるいは習い事の友達の誰かが、そのSwitch 2を我が家にお迎えしたという事実が、まるでブラックホールの重力のように周囲の欲望を吸い上げ、加速度的に膨張させるのだ。「〇〇ちゃん家にあるんだって!」という声を聞いた瞬間に、娘たちの「ふわっと」は「どうしても!」に変化する。それは、まるで青い空に突然積乱雲が現れるかのように、予測不可能で、抗いがたい変化なのだ。

 

そして、ここが最も恐ろしい点なのだが、この「ふわっと欲しい」がどこかの家庭で叶えられてしまうと、それはもう、まるでパンドラの箱が開けられたかのような、不幸の連鎖が巻き起こるのである。最初にSwitch 2を手にした家庭は、その時は新しいハードを手にした満足感に浸るだろう。しかし、彼らは気づいていない。彼らの行動が、その周囲の家庭にどれだけのプレッシャーと、そして最終的には経済的な負担を強いることになるのか、ということに。

「〇〇ちゃん家にあるんだって!」という娘たちの声は、まるで禁断の果実の囁きのように僕の心をざわつかせ、妻の表情を曇らせる。そして、それに抗いきれず、我が家もSwitch 2を導入したとする。その瞬間、その「不幸」は次の家庭へと飛び火する。まるで、ドミノ倒しのように、あるいはインフルエンザの集団感染のように、抗いがたい連鎖が始まるのだ。そしてその連鎖の始まりを作った家庭は、ある意味で「戦犯」なのである。意図せずして、周囲の家庭に数万円の出費を強いるトリガーを引いたのだから。

 

だから、頼む。誰か、ストッパーになってくれ。最初にその「Switch2を買い与える」という、ある意味勇気ある(いや、無謀な)ムーブを起こす家庭よ、どうか待ってくれ! まだ、大丈夫なんだ。まだ、我が家には現行Switchという名の、十分に美味しいお米がある。まだ、そのお米で炊き込みご飯もカレーも作れるんだ。新しい炊飯器がなくても、美味しいご飯は食べられるのだ。

この「ふわっと欲しい」という曖昧な欲望に、安易に約5万円という対価を支払うのは、時期尚早ではないか。その行動が、周囲の家庭にどれだけの波紋を広げるのか、少しだけ想像力を働かせてほしいのだ。

 

今、この瞬間、全国の親たちが、子供たちの「Switch 2欲しい」という声と、5万円という現実の間で、静かなる戦いを繰り広げている。そして、その均衡は、どこかの家庭が最初に「よし、買うぞ!」と声を上げた瞬間に崩壊する。

だから、お願いだ。日本のどこかの家庭で、今まさにSwitch 2の購入ボタンに指をかけようとしているあなた。その指を止めてくれ。あなたのその行動が、僕のような、現行Switchで十分に幸せな家庭の平和を乱す可能性を秘めているのだということを、ほんの少しだけ思い出してほしい。

そして、願わくば、その「買い与えるムーブ」が、しばらくの間、誰にも実行されませんように。そうすれば、僕たちの家庭は、もう少しだけ、このままでいられるはずだから。

 

今一度考えて欲しい。

 

 

現時点でマジで欲しいか?