みんな集まれ半蔵門

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恋人の前でオナラ

 

──愛とは屁理屈である。

 

「恋人の前でオナラするなんて無理」

という話を聞くたび、僕は胸の奥がきゅっと痛む。

 

世界には戦争や環境問題、食糧危機など深刻な問題が山積しているのに、その横で「オナラを我慢して生きる恋人たち」がいる——そう思うと、人類は身近な危機に気付かないほど不安定な世界を歩いているのかもしれない。

 

僕は、恋人の前でのオナラ肯定派である。厳密に言えば、推奨派だ。

なのに、僕の妻は頑として「しない」。

 

思い返してみれば、僕はオナラ平和論を高校生の頃から提唱してきた。

高校生という多感な時期。

「青春」という言葉が、やたらと文学的な香りをまとって見える時期だ。

そして僕は、その香りに混ぜてはならない種類の“香り”を、当時の彼女に求めてしまった。

「俺の前でオナラをしてくれ。俺を愛しているなら、オナラをしてくれ」

今こうして文字にするとやべー奴ですね、これ。女子高生にオナラを強要する事案。

 

もちろん香りを欲しているわけでは無く“オナラを出せる関係こそ、本当の親密さなのでは?”という真摯な想いです。

「本当の愛ってさ……」みたいな語りがしたくなる年頃のせいかもしれません。真剣10代しゃべり場世代だし。

 

そして今も僕は妻に本質的にはオナラを求めているのではない。

僕が求めているのは 「安心していいよ」というメッセージ なのだ

オナラというのは、ある意味で“素の瞬間”だ。

人は素に戻るのを恐れる。

恋人関係はとくにそうだ。

 

だから僕は妻にも「素のあなたでいていいよ」というメッセージのつもりで、オナラを推奨してきたのだ。

でも、このメッセージはおそろしく誤解を招きやすい。

 

妻は今日もオナラをしない。

だがそれでいい。

僕は僕の文化を守り、妻は妻の文化を守る。

異文化交流とは、歩み寄りと尊重のバランスだ。

 

僕は今日もリビングで自然体でいるし、妻は「ちょっとトイレ」と言って席を立つ。

それでいい。

オナラの音は人それぞれ。

そしてオナラへの向き合い方は人それぞれなのだ。