完璧な人生設計などというものが存在しないように、完璧な冷蔵庫の作り置きもまた、この世界には存在しないらしい。
最近の僕は、妻の手作りダイエット弁当を持参して、昼休みはストイックな修行僧のそれと化していた。おかげで徐々に体重も減りつつあるのだが、この日はダイエット弁当の食材を切らしていたようで、久し振りに昼休みはランチに出かけることにした。
松林との出会い
僕の職場は誘惑の街、大阪は梅田。この地のせいで僕の体重は右肩上がりの成長曲線を描いたとも言える。久し振りの外食。その二文字が、脳内で不協和音を奏でながらリフレインする。ここ数週間、僕が固く禁じてきた禁断の果実。
しかし、背に腹は代えられない。午後の業務という名の戦場を乗り切るには、何かしらのエネルギー補給が必要不可欠だ。しかもこの日は13時から18時まで全て1時間ごとの会議を入れられている。馬鹿じゃねぇの?
とはいえ、僕の心は揺れていた。ここで気を抜けば、今までの努力は水の泡と化す。ラーメン屋から漂う、あの官能的なまでの豚骨の香り。洋食屋の店先で、黄金色の衣をまとってこちらを見つめるエビフライ。梅田の街は、ダイエット中の男にとってはあまりにも危険なダンジョンだ。美しい歌声で船乗りを惑わすセイレーンたちが、四方八方から手招きしているかのようだ。
そんな僕に一つの文字が飛び込む。
「十割」
そば打ち松林。
その店先に掲げられた「十割そば」の文字が、まるで僕という存在そのものを肯定してくれるかのように、強く、静かに輝いていた。
「十割…」
僕はその言葉を、失われた古代文明の呪文のように口の中で転がした。つなぎを一切使わない、蕎麦粉100%。そのストイックさ、その純粋さ。それは、ダイエットという名の荒野を独り歩く僕の心に、深く、深く染み渡った。そうだ、これだ。これこそが、今の僕が食べるべき、神に許された唯一の外食なのではないか。
そばのダイエット効果
ここで、少しだけ真面目な話をしよう。
そもそも、なぜ僕は「十割そば」の文字にこれほどまでに心惹かれたのか。それは、ダイエットの救世主としての側面があるから。
蕎麦は、いわゆる「低GI食品」というやつで、食後の血糖値の上昇が緩やかなんだ。血糖値が急激に上がると、インスリンが大量に分泌されて、脂肪を溜め込みやすくなる。つまり、蕎麦は僕の浮き輪肉に対して、極めて紳士的な態度で接してくれるというわけだ。
さらに、「ルチン」という成分も豊富。これはポリフェノールの一種で、毛細血管を強くしてくれるらしい。血流が良くなれば、代謝も上がる。やれやれ、まるで僕の体の中で、小さな土木工事が行われるようなものじゃないか。
そして、何より「十割」であること。つなぎの小麦粉を使わないということは、グルテンフリーであり、蕎麦本来の栄養素、すなわちビタミンB群や食物繊維を、よりピュアな形で摂取できるということだ。
蕎麦はダイエットに良いんだけど、二八蕎麦など小麦粉が多い蕎麦はGI値が高く、血糖値の上昇が急激になりやすいので、ダイエットには向かない。
つまり蕎麦屋だったらなんでも良いってわけじゃないんだね。
大満足のランチメニュー
まるで運命の相手に出会ったかのように、僕は吸い寄せられるように店へと向かった。
落ち着いた雰囲気のカウンター席に案内され、メニューを見る。
だが、ここにもまた、最後の試練が待ち構えていた。
「天ぷら」「かき揚げ」「鳥なんば」…
単純に「ざるそば」だけ頼めば良いのだが、彼らがまるでポップアップ広告のように、僕の決意を揺さぶってくる。さらに「サービスメニュー」の文字。ランチメニューだから単品で頼むより少しお安くなってる魔の誘惑。
「ぐっ…!」
僕は奥歯を噛みしめた。駄目だ。僕は今、聖地エルサレムを目指す十字軍の騎士なのだ。途中で出会う美女の誘惑に負けてはならないっ…‼
駄目でした。
日替わり天ぷら1,200円(税込)。
ここで誘惑に勝てる人間ならここまで肥大化していないのである。
(でも天丼は我慢したところは褒めて欲しい)
ざるの上に、繊細かつ行儀よく横たわる蕎麦。その一本一本が、まるで独立した意思を持っているかのように、きりりとエッジが立っている。
そばを噛みしめると、十割そば特有の、心地よいざらつきと、ぷつり、と小気味よく切れる歯ごたえ。そして、噛めば噛むほどに、穀物の持つ、素朴で奥深い甘みがじわりと滲み出てくる。つなぎを使わない、という潔さ。ごまかしのきかない、実直さ。
まるで、多くを語らず、背中で生き様を示す、不器用な父親のよう。いや、そう思うと気持ち悪くなってきた、やめよう。
そして揚げたての天ぷらもサクッとした幸せな食感。白身魚も野菜も、素材の旨味が口に拡がり申し分無し。天ぷら専門店にも負けない美味しさで「あぁ頼んで良かった…」と大満足な一品。
あっという間に、ざるの上から蕎麦は姿を消した。
最後に、蕎麦湯をいただく。白濁したその液体は、蕎麦の栄養が溶け出した、いわば「蕎麦のエッセンス」だ。残ったつゆに注ぎ、ゆっくりと味わう。蕎麦の香りが再び立ち上り、じんわりと、体の芯から温めてくれる。
ふう、と息をついた僕の心は、すっかり満たされていた。満足感と、ほんの少しの達成感。そして、「俺は正しい選択をした」という、確かな自己肯定感。
僕は店を出た。梅田の喧騒が、少しだけ心地よく感じられる。足取りは軽い。これなら午後の仕事も乗り切れる。ダイエットも、この調子ならきっとうまくいく。そういうことにしておこう。
僕は、未来のシュッとした自分を想像し、少しだけ口元を緩ませた。
店舗情報
店名:そば打ち松林
住所:大阪府大阪市北区中崎西2-4-12 梅田センタービル B1F
営業時間:[月~金] 11:00~14:30、17:40~21:00[土・日・祝] 11:00~15:00
個室:無し
禁煙:禁煙
駐車場:無し