みんな集まれ半蔵門

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よそはよそ、うちはうち

 

長女が小学校四年生に上がった頃、夕食時に唐突にこう言った。

「ねえパパ、みんなスマホ持ってるよ。私も買って」

 

令和の小学生はもうそんな段階まで来ているそうだ。

 

「ほんとにみんな持ってるんだよ。公園でも持ってる子達はスマホでなんかやってるんだよ」

 

なんかやってるって。なんかって何かを言ってくれ。

だけど小四の語彙力は基本的に「なんか」で説明を済ませがちなのだ。

テストの直前も「なんか習った気がする」、遠足の日も「なんか楽しかった」、友達とのケンカも「なんかムカついた」。怖い。

この世のあらゆる出来事が“なんか”に吸収される。万能すぎて逆に怖い。

 

たしかに最近は小学生のスマホ保有率が上がっていることは耳にしている。

僕の中での小学生の必需品は、鉛筆・消しゴム・ナップサックで止まっているのに。

 

とはいえ。

僕にはどうしても、今このタイミングで長女にスマホが必要な理由が分からない。

放課後は友達と公園で遊び、習い事に行き、家に帰ればSwitchでマインクラフトに励み、寝る前にサルゴリラのコントを観ている。

すでに時間のピースが全部埋まっている生活に、さらにスマホを滑り込ませるスペースはあるのだろうか?

 

長女は言う。

「みんなLINEしてるんだよ。私も入りたい」

LINE(友達グループ)が小四の人間関係の中心になっているらしい。

僕の時代なら「遊ぼうぜ!」の号令で、だいたい公園か学校のグラウンドで自然に集まるものだった。

 

しかし現代では、遊びの計画もオンライン。既読と未読の緊張を小四が背負う時代らしい。

いやだ。なんかやだ。

 

とりあえず僕は、一家の家長として、古から伝わる魔法の呪文を唱えた。

「よそはよそ、うちはうち」

この呪文は、万国共通、世代を超えた親の究極魔法である。

これを言ったら大体の議論は強制終了される。

子どもの側も「また出たよ…」と思いつつも、反論の余地は少ない。

そして思わぬことに小学校一年生の次女が、僕の助太刀をしてきた。

 

「そうそう、よそはよそ、ゴリラはゴリラ」

 

……え?

ゴリラはゴリラ?

 

その呪文は知らん。

なんやそれ。

 

次女はきょとんとした顔で答える。

「かえでちゃんが言ってた。 よそはよそ、ゴリラはゴリラって。」

 

全然意味はわからないが、妙に語感が良い。

そして、「よそはよそ、うちはうち」だと、子どもは「なんでうちだけ?」と思いがちだけど、「ゴリラはゴリラ」までセットで来ると得体の知れない説得力が出る。

 

他人は他人。自分は自分。ゴリラはゴリラ。

どの存在も、自分のままで良い。

 

なんだか哲学の匂いすらする。

 

世界はもう、僕の常識とは違う方向に進んでいる。

時代のスピードに振り落とされないためには、時には「理解できないもの」を受け入れる勇気が必要だ。

スマホに関しても、大人の価値観だけで決めるのではなく、子どもの世界を少し覗き込むことも大事かもしれない。

平成の小学生では考えられない、令和の小学生で謎のゴリラ格言が流行っているように。

 

世界は複雑だ。

だからこそ面白い。